山手十番館とは

山手十番館について

横浜と共に歩む
横浜開港の頃、海岸沿いに建てられた外国の商館は「一番館」「二番館」・・と呼ばれていました。山手十番館は母体である勝烈庵の十番目の店として昭和42年(1967年)に明治100年を記念して建てられたものです。その後、「株式会社 横浜十番館」として独立、馬車道十番館、別館馬車道十番館などを開館し、現在に至っています。
(引用:馬車道十番館 横浜と共に歩むレストラン

ウィリアム・コープランド

日本で初めて産業として継続的にビール醸造をした「ビール産業の祖

明治時代の初め、横浜を中心に、ある飲み物が話題となっていた。スプリングバレー・ブルワリーでつくられたビール。日本で初めて継続的に醸造された商用ビールである。
醸造者はノルウェー出身のアメリカ人技師、ウィリアム・コープランド。天沼の湧水を用いたそのビールは、横浜在留の外国人たちに評判を得て東京や長崎など他の都市にも出荷されるようになり、やがて日本人にも飲まれるようになっていった。しかし、醸造が成功するまでの道のりは決して平坦なものではなかった。一流の醸造技術を備えていたコープランドだったが、当時の日本には、ビール醸造のための設備もなければ原料もない。その上、動力の確保すら難しかった。しかしコープランドは工夫を凝らし、諸問題を克服していく。
まず横浜の天沼にビールづくりに最適な水を見つけると、池に流れ込む湧水を動力とする麦芽粉砕用の水車を設置し、動力を確保した。また、麦汁を冷却する冷凍機がないため、10~3月の寒冷期に仕込みを行った。1876(明治9)年、フランスの細菌学者・パスツールが低温殺菌法の適用についての論文を発表すると、翌年にはその手法を取り入れ、実用化していることも注目に値する。
1884(明治17)年、スプリングバレー・ブルワリーは経営不振に陥り、倒産してしまう。しかし彼のもとで修業を積んだ日本人醸造者たちが全国へと飛散し、ビール国産化の流れを形成していく。コープランドが灯したビール産業の灯火はやがて日本全土を照らし、この国の食文化をより豊かなものへと誘うことになる。スプリングバレー・ブルワリーの土地と建物は、日本在住の外国人経営の会社であるジャパン・ブルワリーに引き継がれた。このジャパン・ブルワリーによって、1888(明治21)年に「キリンビール」が発売されたのである。
(引用:キリンホールディングス_企業情報_キリングループの歴史_ビールとワイン 歴史人物伝_ビール醸造のパイオニアたち_ウィリアム・コープランド

ビール発祥の地

日本に初めてビール醸造所がつくられたのは横浜・山手で、当初は居留地の外国人が主なお得意様でした。明治3年に、アメリカ人、ウィリアム コープランドが横浜・山手に開いたスプリングバレー・ブルワリー製のビールは、やがて、日本人にも飲まれるようになりました。明治14年には、日本人の口に合うようにつくられたビールが発売されています。コープランドの醸造所があった土地はジャパン・ブルワリーを経て、「キリンビール」を生み出し、麒麟麦酒株式会社に引き継がれました。
(引用:ビールの知識:日本のビールの歴史|びいるビール麦酒|お客様相談室|キリン

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